「不動産を売る」、「部屋を貸す」など不動産は至って恒常的に取引されている。その金額が高いか低いかは別として取引されている。もちろん、その時々の経済情勢に金額は左右され、また時にはその販売や募集時間なども大きく左右される。
先日私用があり東京へいったが、札幌との差異に驚いた。まず驚かされたのは不動産の売買価格である。もちろん不動産価格は需要と供給の度合いに応じ構築されていくのだが、私がみた募集広告には札幌ではあまりお目にかかれないほどの金額が公然と並んでいた。もちろん、首都圏においては空地が少なく、既存物件に溢れているため希少価値が非常に高められていることも分かっている。それを知っていてもやはり金額の差異には驚かされる、というより、どうしても駅や公共施設からの距離など「不動産」として持ち得ている条件について比較してしまう。「この条件なら札幌のものでいうと・・・」、「このグレードなら・・・」など自分の知っている物件や情報との比較をしてしまう。特に地下鉄駅やスーパーなどの生活上利便性の高い施設については見てしまうのだが、首都圏においては札幌ほどそれらの施設の需要は薄いように感じられた。実際「成約」印のついた物件もあったので見てみたが、見たことも聞いたこともないような駅へ徒歩15分などちょっと不便なのかと思ってしまうようなものなどが成約していたようだった。数が大量に張り出されているわけでも、他の場所を当たってみたわけでもないので、至って閉塞的な状況下での偵察行動だったが他の地域の状況などをみるのもいい勉強だと思った。また、札幌にはないような「表面化した需要」ともいうべき人の動向が見受けられたと思う。これは首都圏における経済の弱体化が我々の考えるほどのものではないことを意味している。つまり、「手の届くものは手に取る(手に入れる)」ということを差している。札幌は少し違っており、手が届きそうな場所にあっても無理をせず、手を伸ばしても余裕があって、初めて手に入れるという状況にあると思う。これは経済が少し弱ってきているため、余力を残しつつ必要なものや糧となるべきものを手に入れていくようなものと読み替えることが出来る。逆からいくと、首都圏は供給と需要のバランスがある程度取れているが、札幌を含む大型都市圏においてはまだバランスが取れておらず、どちらかというと供給が先立ちそのあとを追うように需要が付いて回るという構図が出来ているのではないだろうか。
不動産の取引にも地方性や商習慣、独自のスタイルなどが影響するが、この長い不況下において独自の販路とスタイルを保持し、温故知新を取り入れることが出来るところが、生き残っていくと感じた。
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